文化と歴史

歴史背景

八卦山

「八卦山」の名前の由来

清朝康熙56年(西暦1717年)に改訂された「諸羅県志」の中で「望寮山」として初めて登場しました。恐らく「瞭望山」が誤って記載されたものと思われます。雍正時代には「定軍山」と呼ばれていました。これは、台湾巡道の倪象愷が同地において大甲番社を平定した際、「定軍山」と改名しました(周璽の「彰化県志」に記載され)。乾隆51年(西暦1786年)の「林爽文事件」の後に「八卦山」の名前で文献に記載されるようになりました(乾隆末期の「平台記事本末」や王槐の「廃莪室詩草」を参照)。

歴史背景

「八卦山」という名前の由来についてはさまざまな説があります。歴史に基づいているとして最も広く受け入れられているのは、天地会党の活動と関係しているという説です。「天地」という二文字は卦象における「乾坤」になり、また、乾坤は八卦における最初の二卦です。天地会の党員は彰化で大きな影響力を持っていたので、「望寮山」を「八卦山」に改名しました。また、乾隆末期の「林爽文事件」や「陳周全事件」も八卦山を占領したことがあったことから、天地会党と関係あるという説は、歴史的にも信頼できる説と見られています。

ミン南文化

ミン南文化

ミン南人とは福建省南部に居住し、ミン南方言を話す人々です。明・清朝時代になり、泉州や漳州に住んでいたミン南人は福建省を離れ、台湾や東南アジアに移住するようになりました。ミン南人は自らをholooangと呼びます(holoは「福佬」または「河洛」と表記)。